2017年12月、惜しまれつつ逝去されたマツダの6代目社長・山本健一氏は、「ロータリーの父」とまで呼ばれた稀代のエンジニアでした。
1922年に熊本県で生まれ、東京帝国大学(現在の東京大学)で機械工学を修めると、1946年に東洋工業(現在のマツダ)へ入社。その後、業界再編で窮地に陥った同社を救うべく立ち上げられたプロジェクト、ロータリーエンジンの開発・実用化の研究部長として活躍しました。
当時、業界内で実現不可能といわれたロータリーエンジンの開発は苦難を極めましたが、山本氏をはじめとする開発陣の熱意が打ち勝ち、1967年にプロジェクトは成功。世界で初めて2ロートのロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」が誕生しました。
従軍、荒くれ生活を経て、マツダへ入社
山本氏は東京帝国大学を卒業後、最初は川西航空機へ入社しました。しかし1945年、太平洋戦争が勃発すると海軍へ招集され(階級は技術少尉)、戦闘機の製造に携わります。
その後、戦争が終わると敗戦のショックからか居酒屋を飲み歩く日々が続き、酔いに任せて店内の客と殴り合いになることもしばしば。かなり荒れた生活を送っていました。
そんな生活を見かねてか、母親が知人に頼み込む形で、山本氏は後のマツダである東洋工業へ入社します。
しかし、エンジニアとしてのプライドの高さか、あるいは気性の荒さ故か、同社を「三輪メーカー」と下に見ていた山本氏は、入社面接で何をしたいのかという質問に「現場に少しいたら、設計に移りたい」と強気の回答。これが「現場は一生モノの仕事」と考えていた面接官を激怒させ、採用こそされたものの、最初の配属先は組み立て現場に。そこで先輩にしごかれる日々を送りました。
気持ちを入れ替え、設計部のエースに成長
入社から2年後に設計部へ
その後、山本氏は嫌々とも言える態度で工場勤務を続ける中、広島で三輪トラックが戦後復興に立ち向かう姿を目にして、腐り切っていた気持ちを一新。空いた時間に自ら進んで三輪の図面を起こすなど、猛勉強を始めました。
そうした努力が認められ、入社から2年後に念願の設計部へ異動。エンジニアとして活躍するようになります。
K360を開発
当時の実績として知られるのは、K360の開発・製造です。ダイハツがリリースし、大ヒットを記録していたオート三輪「ミゼット」に刺激され、山本氏は社長が反対する中、秘密裏に対抗車K360を開発。これが大きな注目を集めました。
業界再編の波を乗り切るべく、ロータリーエンジン開発が始動
1960年代、そんな東洋工業に大きな危機が襲いかかります。1965年に乗用車の輸入が自由化される流れが濃厚となっており、後発であった同社は統合・合併しなければ生き残れないのでは、という窮地に陥っていたのです。
そこで同社は、社運を賭けたプロジェクト「ロータリーエンジンの開発」に乗り出します。
実用性は皆無だったロータリーエンジン
1961年にドイツのヴァンケルロータリーの特許ライセンスを取得。ただ、この契約内容は一方的なもので、また譲り受けたロータリーエンジンの試作機も、蓋を開ければ実用には程遠いクオリティでした。
そこで、同社はロータリーエンジンの実用化をめざします。1963年、山本氏はこの社運を賭けたプロジェクトの研究部長に就任(RE研究部長)。ロータリーエンジンの開発に専念します。このとき山本氏とともに働いたマツダOB・小早川隆治さんは、当時の同氏の人柄を「入社したての自分たちのことも信頼して、非常に暖かく接してくださり、みんなが一所懸命やろうという気持にさせてくれる方だった」「若者に刺激を与えるリーダーだった」と語っています(webモーターマガジンより)
ちなみに、この時のプロジェクト立ち上げメンバーは、その人数が47人であったことから、赤穂藩士になぞらえて「ロータリー四十七士」と呼ばれました。
世界初・ロータリーエンジン搭載車両「コスモスポーツ」誕生
ロータリーエンジンの研究を至難を極めました。当時、業界的には、ロータリーエンジンは「実用化不可能」と考えられており、業界専門誌などには識者の痛烈な批判が載るほどでした。山本氏たち47人も当然、強烈な批判に晒されました。
技術的問題が山積み
また技術的な壁も立ちはだかりました。オイルの燃費の悪さ、ガスシール性の低さ、チャーターマークの問題など、解決困難な課題が山積していました。
そうした社内外の苦難があったため、山本氏は「社員のモチベーションを保つのが大変だった」と、後に述懐しています。あまりの心身の疲労から、歯が抜け落ちることもあったそうです。
コスモスポーツをリリース
しかし諦めなかった努力が実を結び、1967年、ついにロータリーエンジンは実用化されました。マツダは同年、世界で初めて2ロートのロータリーエンジンを搭載した「コスモスポーツ」をリリース。海外からも「広島の奇跡」として称賛されました。
その後、多くのメーカーがロータリーエンジン開発に注力しますが、実用化に成功したのは実質的にマツダだけでした。そのため山本氏は「ロータリーの父」と呼ばれました。
その努力がいかに凄まじかったかは、取得した特許数から見て取れます。
ロータリーエンジン開発企業の取得特許数
NSU:291件
ダイムラー・ベンツ:299件
フォード:22件
マツダ:1,302件
ロータリーエンジン終焉、飽くなき挑戦は続く
こうしてマツダは、業界再編に端を発する危機を乗り越えたかに見えましたが、1970年代のオイルショックで、高燃費のロータリーエンジンは再び逆風に晒されます。また環境への配慮も求められる時代へと変わり始め、その逆境は以前よりも厳しいものでした。
グローバル展開
そんな中、山本氏は1977年に同社の取締役、84年には社長に就任。逆風の中での舵取りを託されました。ロータリーエンジンの燃費改善などの困難に立ち向かい、同時にアメリカ工場の立ち上げなど、グローバルでの事業拡大にも着手していきます。
ちなみに、ロータリーエンジン開発時代から、山本氏は会議を英語で行っていたといわれます。早くから世界に目を向けていたことが窺い知れるエピソードです。
ロータリーエンジンの需要低下
しかし時代の波にはついに勝てず、ロータリーエンジンは次第に需要を減らしていきます。その後もスポーツカー専用のエンジンとして長らく愛用されましたが、それも2012年まで。昭和を彩った国産スポーティーカーの代表格「サバンナRX-7」などで知られる「マツダ・RX」シリーズの「RX-8」が同年に生産を終了し、ロータリーエンジンの歴史は終わりました。
そして山本氏はマツダの経営から離れ、2017年、95歳でその生涯を終えました。その功績は輝かしく、お別れの会には業界の重鎮をはじめ、1,000人もの人が故人を偲びました。山本氏がいかに多くの人に慕われていたか、その人柄が見えてくるようです。
ちなみに、広島県三次市にあるマツダのテストコースには石碑があり、そこには山本氏の名前と一緒に、彼を体現する標語とも言える「飽くなき挑戦」という一言が刻まれています。